渦巻く知識

船を漕ぐ者 第四部

ある時、僕の岸辺に一艘の船が着いた。
船は拙い作りで、少し痛んでもいた。
十年か二十年くらいの月日を航海に費やしたのであろう。
船体は変色し、小さい貝や藻が付着していた。

漕いでいたのは少年だった。
いつもの如く顔は見えない。
彼は船から小さい身体を躍りだすと、僕に手を差し伸べてきた。
僕は彼と握手をした。小さい手だ。
「また呼んでくれてありがとう」
彼が言う。
僕は彼を呼んだ記憶などなかったが、彼が来てくれたことが嬉しかった。
「こちらこそ来てくれてありがとう。僕は君を知っている気がするよ。前にどこかで会ったかな?」
問うと少年は微笑みながら
「前にもここには来ました。あなたが呼んでくれたので。それに……」
そう言うと彼は俯いて、少し憚る様な仕草をしていた。
「それに…なんだい?」
僕が尋ねると、彼は顔を上げた。
やはりモヤがかかっていて顔は見えなかったが、彼が何かしら決意めいた表情をしていることが分かった。

「僕はこの岸辺から船を出しました」

彼の言葉に咄嗟に僕は握っていた手を離した。
肌に粟を生じて、僕は一歩後ろへ引き下がった。
寒気が身中から襲いかかる。
それはまるで嵐のような焦燥であった。
「もう行かなきゃ。僕が辿り着くべき岸辺はきっとここじゃないから」
少年はそう言うと船に乗った。
「待って!」
僕が叫ぶと少年はこちらを見た。
「君が辿り着くべき岸とはどこなんだ?君は誰なんだ?」
僕は慌てていた。何かに追われているような気配がした。
この岸辺には、今は僕とこの少年しかいないはずなのに。
「僕が辿り着くべき岸辺は分かりません。もしかすると存在しないのかもしれないです。けれども、あなたがまた思い出を探す時、僕はまたここにやってくることが出来ます。僕はあなたが呼んでくれたならいつだってここに来ます。」
少年はそう言うとフッと笑って、そうして船を漕ぎ出した。
船に掲げられた旗を、僕は知っていた。

彼の背中を見送って、私は心の内から何かが去っていくのを感じた。
それは郷愁を帯びた、憂いにも似た薄衣に包まれていた。
少年の船は見えなくなった。